「明石焼」100年を超えるロマン
今は幻の明石玉から始まった歴史
江戸末期(ここでは黒船来航1853年頃)から明治期(1912年頃)にかけて、珊瑚(サンゴ)の代わりとして「明石玉」という人工珊瑚が作られ、兵庫県明石市の特産品として中国や朝鮮へも輸出された。1887年(明治20年)には明石に11軒の工場と37人の職人がおり、年間53万個が製造されたとのこと。
「明石玉」は天然珊瑚と同様の見た目や質感を再現することができるという特長があり、装飾品やジュエリーなどに利用されていました。明石玉は、当時の製造技術やデザインセンスが詰まった製品として高く評価されていました。
その人工珊瑚は、米粉を型に入れて球状にしたものに赤く染められた牛の爪を接着剤で貼りつけて固めて作られていた。この接着剤として鶏卵の卵白を使用するため、あとには大量の卵黄が残る。その廃棄利用として作られたのが、後に明石名物になった明石焼の原型(玉子焼α=卵黄のみでタコはまだない)となります。
【明石玉の発明】
天保年間(1830年~1844年)の頃、べっ甲細工師の江戸屋岩吉が金毘羅参りの帰りに懐に入れていた卵を割ってしまったそうです。帰ってみると懐がパリパリに乾いていました。それをヒントに岩吉は卵の卵白が強力な糊の特性がある事に気づき「明石玉」を発明したということです。
失業した明石玉職人が始めた屋台
その後、明治時代中期には海外からセルロイド(プラスチック)が入ってきたことにより、人工珊瑚はセルロイド素材で作られるようになり、昔ながらの明石玉を作っていた職人は失業してしまいました。職を失った職人たちは、手元に残った明石玉製造用の型を利用して商売を模索しました。明石玉用に仕入れていた卵を丸い型へ流し込み、明石の名産品であるタコを入れて屋台で販売を始めると大人気となり明石焼(玉子焼β=出汁はまだない)が爆誕したのでした。
記録の上では大正8年(1919年)に元祖と呼ばれている向井清太郎が、屋台(現在の「本家きむらや」の前身)で売り始めたのが「明石焼のお店」のもっとも古い記録となる。「本家きむらや」の店舗運営は大正13年(1924年)から。
ただし明治時代には明石焼が屋台で販売されており、向井清太郎が「最初」ではない。当時はライバルも多く向井以外には材木町の八雲座(芝居小屋)で田楽と一緒に玉子焼を売っていた「楠本」や、林神社のそばにあった「蛸万」という店もあったらしい。同時期に店を始めたライバル店へのけん制のため、向井は店名に「本家」の文字を入れたのではないかと筆者は想いをよせる。
【元祖のレシピ】
元祖と呼ばれる向井が始めた屋台が「本家きむらや」の前身であることは述べたとおりだ。ではなぜ【本家】きむらやなのか?【元祖】を名乗らないのか?ここで玉子焼をめぐる因縁が存在した。
創業昭和27年(1952年)の「明石焼 よこ井」は、魚の棚にある老舗だ。ガイドブック等でも紹介されているのでご存じの方も多いだろう。なんとこの「よこ井」が「向井流」を名乗っているのである。つまり「よこ井」が【元祖】で「きむらや」が【本家】というのだ。「よこ井」側の主張はこうだ。はるか昔、向井が玉子焼の屋台をやっていた頃、よこ井現店主の父が常連として向井の屋台に通っていたらしい。その当時に向井からレシピを直接に教えてもらっていたのだ。しかも向井は自身の子息にもレシピを伝える事はなかったというのだ。【元祖】向井の玉子焼は「よこ井」ということになるらしい。
「明石焼」は「たこ焼き」のルーツ
ラヂオ焼と明石焼が出会い、たこ焼きが生まれる
明石焼よりも全国(全世界)でポピュラーな「たこ焼き」の発祥が昭和10年(1935年)である事から明石焼はそれより古い事がうかがえる。更には「たこ焼き」の発祥に「明石焼」が大きく関わっている(というより「たこ焼き」は「明石焼」のコピーだった)ということだ。
コンニャクや牛スジを小麦粉に入れて焼いたラヂオ焼の屋台店主(現在の「会津屋」)である遠藤留吉は「明石ではタコを入れた玉子焼が人気」と聞き、真似をしてラヂオ焼にタコと鶏卵を入れて「たこ焼き」として売り始めたのが始まりなのだ。
当初は「明石焼」「たこ焼き」のどちらもソースや出汁を付けずに出汁と醤油風味の味付けでそのまま食べていた。当時、明石焼は1個から、たこ焼きは2個からでも販売されていた(戦前は2個で1銭程度)。「明石焼」では熱々の玉子焼を出汁で冷まして食べやすいようにと考案されて「(冷たい)出汁に付ける」食べ方が主流となっていく。一方「たこ焼き」の方はというと、1948年にオリバーソース(兵庫県神戸市)が、イギリス産のウスターソースを改良し濃厚で甘みが強いとんかつソースを発明した事により、ソースたこ焼きが主流となる。その香ばしい香りが関西人の嗅覚をガッツリ掴み取り、大阪で急速に勢力を伸ばしていった。そして1955年には大阪市内だけで(店舗・屋台含め)たこ焼き屋が5000軒はあるという説がでるほど普及した。
高騰する明石焼価格と失われる伝統
玉子焼の道具として「銅鍋(銅製の焼き器)」と「上げ板(玉子焼をのせる板)」があります。どちらも玉子焼以外ではほとんど使われないので作る職人が少ないのが悩みの種です。つい最近、銅鍋の匠が店を閉じました。
玉子焼の材料としては浮き粉(じん粉)と卵と明石ダコになりますが、明石の名産である明石ダコは不漁により漁獲量が激減しています。
大阪で青天井となる1鍋の価格
先日「At.明石焼名鑑」として現存する全国の明石焼名店を166店舗確認しました。近隣は直接出向いて、県外や遠方は人伝に頼っていますが、少なくとも営業している名店です。実際には200店舗以上のリストがあるのですが、コロナ禍で店舗の閉業が著しくて確実に存在を確認出来ていない店舗は掲載していません。今後、確認を進めて更新していきます。
実に半年近くをかけて「At.明石焼名鑑」を公開したのですが、この半年でもっとも大変だったのが提供価格の変動です。名鑑にある玉子焼価格は可能な限り最新の情報を表示していますが、公開(2023/2/5)から1週間経過した現時点(2/12)ではもう、どれだけ変動しているのか…。1年で2回、3回と値上げしている店舗も珍しくありません。
玉子焼(明石焼)の高騰は特に大阪のチェーン店で激しい模様です。いくら観光客目当てだといっても驚きです。新大阪や道頓堀で8個1,000円の玉子焼を注文している方達に、20個700円の明石地元の本物を食べさせてあげたいです・・・マジで。
※明石焼は1人前を「1鍋」と呼ぶのが本来なのです。銅鍋1枚で焼けた玉子焼を1枚の上げ板に鍋をひっくり返して盛り付ける。それが1人前だからそう呼ばれていました。
銅鍋がないと美味しくは焼けません
「たこ焼き」には鉄鍋を使いますが「明石焼」には銅鍋が使われます。この銅鍋ですが明石には一人だけ、明石焼鍋を作る匠がいました。明治中期創業のヤスフク明石焼工房3代目の安福保弘。1941年生まれの彼は半世紀以上銅鍋を打ち続けてきたが、2021年頃に店は閉業となった。150年続いた店には跡継ぎはいなかった模様(大阪の日本橋に焼き器を作っている店が2店舗現存。しかし手作業で作っているのはヤスフク明石焼工房のみだった)。
いままで市内明石焼店の大半(7割)が安福の鍋を使っていたので、今後の明石焼業界にとっては衝撃の出来事であった。ちなみに彼の銅鍋はオークションに高値で出品されはじめています。
【明石焼用の銅鍋】
銅は熱伝導率が高く、鉄と違って銅鍋は熱がまんべんなく広がり、ふわぁ~っと焼きあがる訳です。ちなみに和食の板前もだし巻きを焼くために専用の銅鍋を好むのは有名なお話。
また銅鍋づくりには昔ながらに木槌で叩いて伸ばしていく製法と機械でプレスする製法がある。プレスの場合は銅がただ伸びるだけで、穴の深い部分は厚みがなくなる。匠が木槌で打つ場合は他の部分の銅を絞り出しながら伸ばしていくので、どこも同じ厚みに仕上がるのだ。厚みが均一なら熱がまんべんなく伝わり、隅の方もふっくらと焼きあがるのだ。そして20~30年使ってもへっちゃらなのだ。
明石焼は明石ダコが本命
加古郡播磨町にある大中遺跡からは古墳時代中期(約2300~1800年前)の蛸壺や土製のおもりが出土しており、明石の海ではその頃から蛸壺漁が盛んにおこなわれいた。明石人は2000年前からタコを食していたという。
昔から明石ではタコは安くて美味い名産として誇りであった。しかし現在、今までは例年1000トン(2009年は1400トン)あった蛸の漁獲量は2016年からは1000トンを下回り2021年には143トンにまで激減している(12年で1/10に減少)。
卸値が5年前の倍以上となり、スーパーや市場店頭では大物の生蛸は1匹5,000円~9,000円と高級明石鯛を追い越す勢いである。とうぜん地元明石の玉子焼価格は上昇を続けるのであった。