昔は「赤石」だった地名がいつから「明石」に?
古代の文献「風土記」「日本書紀」などでは「あかし」の地名を「赤石」と記している。これが「赤石伝説」の一因であるが、過去の文献を紐解いてみたいと思う。
播磨国風土記(奈良時代初期に編纂)
播磨国風土記(はりまのくにふどき)は、奈良時代初期に編纂された播磨国の風土記である。平安時代末期に書写された写本が国宝に指定されている。編纂が行われた期間は和銅6年(713年)から霊亀元年(715年)頃までとなり、720年につくられた『日本書記』に先行するとみられる。
賀古郡・遂到赤名(石)郡廝御井
・通山於赤石郡林潮
託賀郡・昔明石郡大海里人
『釈日本紀』播磨風土記逸文・明石駅家駒手御井者
『播磨国風土記』については『釈日本紀』が鎌倉時代末期に記されているので配慮する必要はあるが、赤石と明石の両方の表記がみられる。
日本書紀(養老4年(720年)に完成したと伝わる)
神功皇后・詣播磨興山陵於赤石
允恭天皇・赤石海底有真珠
清寧天皇・於赤石郡縮見屯倉
顕宗天皇・向播磨国赤石郡
仁賢天皇・将左右舎人至赤石奉迎
推古天皇・時従妻舎人姫王身薨於赤石
孝徳天皇・西自赤石櫛淵以来
『日本書紀』の記述は、全て赤石が使われている。
続日本紀(しょくにほんぎ)(延暦16年(797年)に完成)
聖武天皇・明石賀古二郡百姓 高年七十已上
称徳天皇・播磨国明石郡人外従八位下海直溝長等
桓武天皇・播磨国明石郡大領外正八位上葛江我孫馬養
「赤石」が使われたのは「風土記」「日本書紀」に限られる
続日本紀は日本書紀に続く律令国家がつくった歴史書で、延暦16年(797)に完成した。続日本紀以降の「アカシ」の表記については、明石が使われている。さらに、日本書紀が成立した以降に記された住吉大社神代記(天平3年/731年)には「明石郡魚次浜一処」、法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(天平19年/747年)には「播磨国参処明石郡一処」、平城宮跡出土木簡(天平19年/747年)には「明石郡藤江里」、東大寺要録(天平20年/748年)には「明石郡垂水郷塩山地三百六十町」とあるように、すべて「明石」となっている。
このように「赤石」表記は「風土記」「日本書紀」に限られており、他は「明石」が使われているようだ。播磨国の風土記を編纂するにあたり「畿内七道諸国郡郷名着好字」に基づいて「赤石」という漢字をあてたと推測される。
少なくとも「明石」の由来は「赤石」
文献によると「明石」の前は「赤石」と書いて「あかし」と呼んでいたのは確認できた。地元でもそう呼ばれていたのかは確認できてはいないのだが・・・
当然ながら「赤石」が鹿の血が固まった赤石なのかはわからないし、海に沈んでいる(沈んでいた?)赤石から地名の「赤石」になったのかも定かではない。
ただ少なくとも715年に編纂された風土記に「明石」が登場してしまうので「赤石」の地名の由来はそれより昔のことになる。日本書紀(720年)より昔という事である。
私が確認した中で「あかし」(明石&赤石)の地名が確認できる文献でもっとも古いのが播磨国風土記なのだが、今後、もっと研究が必要だろう。赤石伝説の探求の旅は、まだ始まったばかりなのだ。