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【明石】明石の名前の由来が明らかに?赤石伝説 – 藤江海岸「赤石」は語る?

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明石の名前の由来と解くヒントとして、いくつもの伝説が存在します。それは、藤江海岸にある「赤石の碑」に関連しています。この碑が何を語っているのか、多くの人々が興味を持っています。赤石伝説には、古代から伝わる言い伝えや歴史的な事実が絡んでいると言われています。明石の名前の由来を解明する手がかりが、この碑に隠されているのかもしれません。果たして、赤石伝説は本当なのでしょうか?その真相を探るために、私たちは藤江海岸へ足を運びました。今回の記事では、赤石伝説の謎に迫り、明石の名前の由来を解明するための手がかりを探ってみたいと思います。

目次

明石の名前の由来について

明石の名前の由来について、明石という地名の歴史と明石の名前の由来となった赤石について説明します。明石は古くから栄えた港町であり、その名前の由来には複数の説がありますが、その中でも有名なのが赤石伝説です。赤石とは、藤江海岸にある「赤石の碑」に由来しています。数ある赤石伝説のひとつにはこうあります。美しい姫君と恋に落ちた王子が、悲劇的な結末を迎える物語であり、その悲劇的な物語が明石の名前の由来になったと言われています。明石の名前の由来には他にも説があるかもしれませんが、赤石伝説は特に有名であり、明石の魅力を感じさせる由来となっています。

明石という地名の歴史

明石という地名は、兵庫県南部に位置しています。『源氏物語』や『日本書紀』にも登場する古い地名で、その語源は明石川の西(林崎松江海岸沖)にある赤石(あかいし)から来ているとも言われています。また、「明し」という言葉から「明るい」という意味も含まれているとされています。

明石の地名は、歴史的に見ると以下の2つの意味を持っています。

旧明石郡(明石藩):現在の明石市(二見地区を除く)、及び神戸市垂水区・西区・須磨区(北須磨地区)が該当します。六甲山系の西側に広がる播磨平野東部のうち、明石川流域に形成された集落を中心とした広域です。

明石市内の明石駅周辺:ここは元明石城の城下町であり、古くから栄えた集落です。現在も、市場や漁港などがあり、古くからの町屋や寺、遺跡などが多く存在します。

また、明石市は昭和の大合併時に神戸市に編入合併する構想もありましたが、神戸市の税金の高さや行政が住民から遠ざかることなどに起因する明石市民の合併反対運動を経て住民投票の結果、現在に至っています。

さらに、明石市は「時の町」「文化の町」として知られており、その歴史文化は5つのテーマに導かれています。
1) 播磨灘に面する地勢により育まれた生業の歴史文化
2) 古代の足跡を語る歴史文化
3) 明石城下に花開く歴史文化
4) 海の道・陸の道の歴史文化
5) 近代明石を牽引した歴史文化

このような多角的な視点から見ると、明石という地名はその地理的要因から人々の流れや集落・文化の形成に大きく影響を与えてきたことがわかります。そしてその結果、今日私たちが知る多様で豊かな「明石」が形成されてきたわけです。

明石の名前の由来となった赤石とは

明石の名前の由来となった「赤石」は、兵庫県明石市の地名「明石」の由来とされている伝説、通称「赤石伝説」に登場します。そのひとつは、明石市林二丁目の宝蔵寺にある「雌鹿の松」の伝説があります。

この伝説によれば、昔、林村の浜に「おささ」という名の美しい雌鹿が住んでいて、四国の小豆島には元気な雄鹿が住んでいました。二頭は仲むつまじい夫婦だったと言われています。潮が引くと、小豆島まで浅瀬が浮かび上がった。この時を利用して、「おささ」はピョンピョンと浅瀬を往復したそうです。

しかし、ある嵐の日、「おささ」は漁師の起した過ちで命を落としました。その後、嵐は何日も続きました。怖くなった漁師は神仏にお祈りをしました。すると、「お前が殺した白鹿は赤石となり、うらんでいるぞ。早く弔ってやれ」というお告げがあったそうです。

漁師はすぐに翌朝、宝蔵寺の境内に若松を植え、ねんごろに霊を慰めたと言われています。その松は「雌鹿の松」と呼ばれ、空を隠してしまうほど大きくなっていたそうです。

この伝説から、「赤石」は鹿の血で赤く染まったもの、または白鹿が赤石と化したものとされています。これらから、「赤石」という名前が「明石」という地名の由来となったことが理解できます。

赤石伝説とは

赤石伝説とは、明石の名前の由来となった伝説のことです。赤石伝説には様々な話がありますが、その中でも特に有名なのは「赤石の碑」で語られる話です。赤石の碑は藤江海岸にあります。赤石伝説の起源や歴史については詳しくは分かっていませんが、古くから人々の間で語り継がれてきた伝説であることは間違いありません。赤石伝説にはまだまだ謎が多く、その魅力には多くの人が惹かれています。

また別の赤石伝説もある

かつて、日本の古代には、神々が人々の生活に深く関わり、自然現象や地名の由来を語る数々の伝説が生まれました。その中に、「赤石伝説」と呼ばれる物語があります。この物語は、兵庫県明石市の地名「明石」の由来とされています。

物語はこう始まります。昔々、明石の北にある雄岡山と雌岡山に、狩人夫妻が住んでいました。狩人は毎日、海を渡り、小豆島に住む美しい女性を訪ねていました。しかし、ある日、狩人が妻に見せた夢に従わずに小豆島に向かったところ、悲劇が起こります。林崎から放たれた矢が鹿を貫き、鹿と共に海へと落ちてしまったのです。

その後、血塗られた鹿は「赤石」となり、今では藤江海岸の沖に沈んでいると伝えられています。また、林神社の神さまである小童海命が林の海岸にある大きな赤石の上に現れたとも言われています。

この赤石は成務天皇8年の大暴風雨で海の中に沈んだとされています。それ以降も、「赤石見」と呼ばれる見物が行われ、天正9年には羽柴秀吉もこの赤石を見たと言われています。

これらの伝説や歴史的な出来事から、「明石」という地名が赤石に由来していると信じられています。明石市には現在でも「赤石の碑」と呼ばれる石碑があり、この地名の由来を伝えるものとして観光名所となっています。

なお、「明石」は源氏物語でも登場しますが、この物語との関連性は明確ではありません。また、藤江海岸も明石市の海岸の一部であり、景色の美しさから観光地として人気があります。

以上が「明石」地名由来物語です。神々や人々、自然現象が絡み合ったこの物語は、今でも地元の人々や観光客を魅了し、明石市の歴史や文化を色濃く反映しています。

柿本人麻呂が詠んだ「鹿の瀬」とは

柿本人麻呂が詠んだ「荒たへの藤江の浦に鱸釣る白水郎とか見らむ旅行くわれを」は、万葉集の一部であり、彼が旅行中に詠んだ歌です。この歌は、明石市の藤江海岸で鱸(すずき)を釣る漁師を見て詠まれたものとされています。

この歌が「鹿の瀬」に直接言及しているわけではありません。しかし、「鹿の瀬」は明石市沖合に位置する漁場であり、その地名は「鹿が海を渡っていた」という赤石伝説から来ているとされています。したがって、柿本人麻呂が詠んだこの歌と「鹿の瀬」や赤石伝説との間には間接的な関連性があると考えられます。

それでも、「荒たへの藤江の浦に鱸釣る白水郎とか見らむ旅行くわれを」という歌は、当時の人々の生活や文化を反映しており、その中には漁業や旅行といった日常的な活動が含まれています。これらの活動は、「鹿の瀬」や赤石伝説と同様に、地域の自然環境や社会的背景を反映しています。したがって、これらすべてが互いに関連し、相互作用しながら地域の文化や歴史を形成してきたと言えます。

赤石伝説の鹿は鹿の瀬を渡った?

赤石伝説と鹿の瀬の漁場は、歴史的事実と伝説が絡み合っています。赤石伝説の一つに、明石市林崎あたりに住む雌鹿が小豆島の雄鹿と通い合っていたが、あるとき漁師に刺されてその血が赤い石になったという話があります。また、鹿が海を渡っていたと呼ばれるところが「鹿の瀬」という播磨灘屈指の漁場でもあります。

「鹿の瀬」は、明石の沖合に位置する日本屈指の漁場です。この地域は、水深が5〜30メートルと周辺と比べて浅く、林崎沖から播磨灘に向かう水深20メートルから浅いところで2、3メートルまでの水深が連続する砂で覆われた海中の丘陵地帯です。

潮流や海底地形が変化に富んでおり、明石海峡の速い潮の流れが複雑に入り組み、プランクトン、エビ、カニ、小魚などが集まって格好のエサ場を形成します。それらのエサを求めて明石だこをはじめ、明石鯛やヒラメ、カレイ、アナゴなど多種多様な魚が集まるため、この周辺では好漁場を形成します。

また、「鹿の瀬」はイカナゴの産卵場・夏眠場としても知られています。これら一連の特性が、「鹿の瀬」を日本屈指の漁場として位置づけています。

この赤石伝説では、鹿が海を渡るエピソードが多く出てきますが、それは「鹿の瀬」の名前とリンクしています。また、鹿が海を渡る途中で漁師によって殺され、その血が赤い石になったという部分は、鹿の瀬の複雑で流れが速く、しかも水深が極めて浅い地域の為、中型以上の船が沈み、多くの者が沈んだ海を意味しないでしょうか。

さらにこの豊かすぎる漁場では、明石の漁師と淡路島の漁師がこの地を巡って争った可能性もあります。この争いやいざこざが赤石伝説に影響を与えた可能性もあります。昔の人々は自然現象や出来事を理解するために、神話や伝説を作り上げました。その中で、赤石伝説は明石地域の自然や文化を象徴する物語となりました。

「赤石伝説」と「鹿の瀬」は歴史的事実と地域の伝説が絡み合った形で存在しており、その中には人々の生活や文化が反映されています。

赤石の碑の位置と特徴

赤石の碑は、兵庫県明石市の松江地区に位置しています。この碑は、明石市の名前の由来ともされる赤石に関連する伝説を記念するもので、その碑には鹿のレリーフが埋め込まれています。現在、赤石自体は海中に沈んでいますが、かつてはこの松江の沖合の海面に顔を出していたとされています。

赤石の碑は、林崎松江海岸と藤江海岸という二つの海岸間に位置しています。林崎松江海岸と藤江海岸は、その美しい自然環境と豊かな海の幸で人気を集めており、どちらも家族や友人と楽しい時間を過ごすのに最適な場所です。これらの海岸を訪れた際には、ぜひ赤石の碑に立ち寄ってみてください。

それで赤石はどこに?

『明石記』に記された赤石の伝説は、今もなお明石市の風景と深く結びついています。その赤石は、かつて西浦辺組東松江村と西松江村の境の浜辺から、8間程の沖に存在しました。この石は一辺が4尺、他辺が5尺の大きさで、下辺は傘のように細くなっていました。薄紫色をしており、普段は2尺ほど水中に沈んでいますが、毎年3月3日の潮に合わせて石の上部が海面から現れると言われています。

現在、その赤石が沈んでいた場所の近くに「赤石の碑」が建てられています。この碑は林崎松江海岸と藤江海岸の中間地点、具体的には藤江漁港の西端に位置しています。その近くは赤石川(東松江川)という小さな川が海に流れ込む砂浜となっており、小川が流れ込むこの砂浜は夏になると子供たちがアミを手に群がる海の生物の宝庫となります。

地図上では、「赤石の碑」は「松江公園」の真南に位置しています。この公園は大きな公園で、雨天時でも人々が集まります。公園から海沿いに歩いていくと、「赤石の碑」を見つけることができます。碑には鹿のレリーフが埋め込まれており、現在、赤石は海中に沈んでいますが、かつてはこの松江の沖合の海面に顔を出していたそうです。

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