明石の海の底に、一つの石が眠っている。
林崎松江海岸と藤江海岸のあいだ、波打ち際からわずか百数十メートル。夏には子どもたちが歓声を上げ、夕暮れには明石海峡大橋が茜色に染まる、あの見慣れた海の底に。
その石の名は「赤石(あかいし)」。
千三百年前の正史『日本書紀』が記し、太閤秀吉が船を出してまで見物し、昭和のはじめには浜からその赤い肌が見えたと古老が語る。そして——「明石(あかし)」という地名そのものの由来と伝えられてきた石である。
なぜ石が赤いのか。そこには、鹿の血にまつわるいくつもの物語がある。
本記事は、明石に50年暮らした筆者が、現地を歩き、文献を繰り、伝承のすべてのバリエーションと、記録に残る事実と、そして学術の「不都合な見解」までを一冊にまとめた、赤石伝説の完全読本である。
物語として読むもよし。資料として使うもよし。ただし一つだけ約束してほしい。第一部は「伝承」であり、第二部は「記録された事実」であり、第三部は「検証」である。 この三つを、本記事は決して混ぜない。
第一部 伝承編 ― 鹿と神々の海
(この章に記すのはすべて「伝承」である。史実としての裏付けの有無は第二部・第三部で扱う)
序 ― 鹿の瀬
まず、舞台から語らねばならない。
明石の沖から小豆島の方角、播磨灘へと延びる海域に、東西約20キロ・南北約5キロの巨大な海中の丘がある。水深20メートルから、浅いところではわずか2〜3メートル。瀬戸内海から明石海峡へ流れ込む速い潮がここでぶつかり、プランクトンが湧き、エビが、カニが、小魚が集まる。明石鯛、明石ダコ、イカナゴ——瀬戸内海随一と謳われる魚の宝庫だ。
この海域の名を、「鹿の瀬(しかのせ)」という。
海の真ん中に、なぜ「鹿」の名が付いているのか。
伝承は言う。——その昔、この浅瀬を、鹿が渡っていたからだ、と。
潮が引けば、海の中に道が浮かぶ。その道を、鹿が跳ねながら明石と小豆島を行き来していた。信じがたい話に聞こえるだろうか。だが地図を開いてほしい。鹿の瀬は実在し、今もGoogleマップに「鹿ノ瀬灯浮標」の名が浮かんでいる。浅すぎて中型・大型の船には危険水域ですらある。鹿が渡ったという伝承は、この特異な海底地形と、切っても切れない関係にあるのだ。
そして、その鹿の物語の終着点が——赤石である。

鹿が渡ったという浅瀬は、伝説の中だけの場所ではありません。今この瞬間も、鹿の瀬は公的な記録の上に、はっきりと存在しています。
海上保安庁は、この浅瀬を航行する船に危険を知らせるため、海上に「鹿ノ瀬灯浮標(しかのせとうふひょう)」を浮かべています。航路標識番号3810、北緯34度34.7分・東経134度48.2分。江埼灯台の西方およそ18キロの海上です。2022年には潜水による調査が行われ、2026年の監視装置整備工事の対象にも挙げられています。灯は今も、鹿の瀬を守り続けています。
なお、地図アプリで「鹿ノ瀬西方灯浮標」を検索すると「廃業」と表示されることがありますが、これは灯浮標を店舗などと同じ施設として自動分類してしまった表示上の誤りです。海上保安庁による廃止の告示はなく、むしろ2023年に本体の全交換工事が行われています。鹿の瀬の灯は、消えていません。
その姿かたちも、公的に測られています。明石市は鹿ノ瀬を「林崎沖から播磨灘に向かう、水深20メートルから浅いところで2、3メートルまでが連続する、砂に覆われた海中の丘陵地帯」と説明します。環境省は「生物多様性の観点から重要度の高い海域」として鹿の瀬を選定し、その面積を108平方キロメートル、水深を5〜30メートル、周囲の海は40メートル以深と記しています。兵庫県の水産技術センターは、これを明石海峡の激しい潮流が長い年月をかけて積み上げた「砂の山脈」と呼びます。イカナゴが産卵し、夏を眠って過ごす海です。
そして、最も静かに驚くべき事実があります。
地質調査所(現・産業技術総合研究所)の研究によれば、瀬戸内海東部の海面は、およそ1万年から1万2千年前、今より45メートルほど低い時期がありました。明石海峡そのものが形づくられたのが、およそ8千年から1万1千年前。水深5〜30メートルの鹿の瀬は、その時代、確かに海の上にありました。つまり、この浅瀬は、かつて陸だったのです。
もちろん、鹿が歩いて渡ったという物語と、1万年前の陸地とを、そのまま結びつけることはできません。地名としての「鹿の瀬」がいつ生まれたのかも、まだ突き止められていません。それでも——この海に、歩いて渡れた時代が実在したこと。その事実だけは、動きません。
伝承は、海の記憶なのかもしれません。
伝承一 猟師の矢 ― 最も知られた物語
最もよく知られた形は、こうだ。
神代の昔、一頭の鹿が海を渡っていた。明石と小豆島を結ぶ浅瀬の道を、いつものように。
そこへ、一本の矢が飛んだ。
猟師の放った矢は鹿を貫き、鹿は海に沈んだ。流れ出た血は海中の岩を赤く染め——あるいは、鹿そのものが岩と化し——それが「赤石」となった。
「赤石(あかいし)」。やがて人はこの地を「あかし」と呼ぶようになった。
明石市市制100周年の記念マンガでも紹介された、いわば公式の顔を持つ物語である。シンプルで、悲しく、そして地名の由来としてこれ以上ないほど鮮烈だ。
だが、赤石伝説はこれ一つではない。ここから先は、より深く、より奇妙な物語の森に入っていく。

伝承二 神出の神々 ― 「おお、明し」と男神の恋
明石の北、神戸市西区に、双子のような二つの山が並んでいる。東の雄岡山(おっこうさん)と、西の雌岡山(めっこうさん)。ともに標高250メートル足らずの、椀を伏せたような美しい山容から「明石富士」とも呼ばれる。
この地の名は「神出(かんで)」。——神が、出た土地である。
伝承によれば、この山でスサノオとクシナダヒメが暮らし、多くの神々が生まれた。それゆえの「神出」だ(生まれた神の数は、大穴牟遅神=大国主命から百八十一柱が生まれたとする伝えもあれば、八百余の神々とする伝えもある)。大同4年(809年)には平城天皇が神出神社を興し、雄岡・雌岡の神号を贈ったとされる。
この神出には、二つの「あかし」誕生譚が残る。
一つは、おおらかな物語。大国主命が神出の山から南を見晴るかし、瀬戸の海のきらめきに思わず声を上げた。
「おお、明(あか)し」
——明るい。なんと明るい土地か。その一言が地名になったという説である。
もう一つは、恋の物語だ。
雄岡山の男神が、海の向こう、小豆島に住む美しい女神に恋をした。男神は鹿に乗り、鹿の瀬の浅瀬を渡って逢いに行く。
その途中——淡路の漁師の矢が、鹿を射た。
男神は鹿もろとも海に沈み、鹿は赤い石と化した。それが赤石であり、「あかし」の始まりであり、鹿が沈んだあたりが「鹿の瀬」と呼ばれるようになった、という。
恋に急ぐ神と、それを知らぬ漁師の矢。神話でありながら、どこか人間くさい悲劇である。

伝承三 狩人と大鹿 ― 『あかし昔ばなし』の伝える形
神戸新聞明石総局が編んだ『あかし昔ばなし』は、「雄岡山最明寺記」を題材として、また別の形を伝えている。
雄岡山・雌岡山のふもとに住む狩人が、大鹿を追った。追われた大鹿は海に飛び込み、泳いで逃げる。狩人も海に入り、あるいは丘の上から狙いを定めた。
林崎の沖。丘上の狩人が放った矢が、ついに大鹿を捉える。
大鹿は絶命し——そして狩人もまた、海に呑まれて溺れ死んだ。
鹿の血は石に染み、東松江と西松江のあいだ、浜からほんの十五メートルほどの沖に、赤い石が残された。
獲るものと獲られるものが、同じ海に沈む。この形の伝承には、猟の業(ごう)とでも呼ぶべき陰影がある。
伝承四 雌鹿おささ ― 宝蔵寺「雌鹿の松」の物語
明石市林2丁目、海門山宝蔵寺。この寺には、赤石伝説の中で最も情感豊かな物語が伝わっている。
昔、林村の浜に、「おささ」という名の美しい雌鹿が住んでいた。海の向こう、小豆島には元気な雄鹿が住んでいて、二頭は仲むつまじい夫婦であった。
潮が引くと、小豆島までの海に浅瀬が浮かび上がる。おささはその時を待って、ピョンピョンと浅瀬を跳んで渡り、夫のもとへ通った。——天下の好漁場「鹿ノ瀬」の名は、ここから付いたのだと、この物語は言う。
ある嵐の日。おささは、漁師の起こした過ちによって命を落とした。
その日から、嵐が何日も続いた。海は荒れ、漁に出られず、村は静まり返った。怖くなった漁師が神仏に祈り続けると、満願の夜、お告げが下った。
「お前が殺した白鹿は赤石となり、うらんでいるぞ。早く弔ってやれ」
漁師は翌朝すぐ、宝蔵寺の境内に若松を植え、ねんごろに霊を慰めた。その松は「雌鹿の松」と呼ばれ、やがて空を隠すほどの大樹に育ち、東隣の若宮神社まで見事な枝を張ったという。
初代の松は昭和20年(1945年)7月の空襲で、本堂とともに焼けた。今、境内に立つのは昭和23年(1948年)に植えられた二代目である。傍らの歌碑には、こう刻まれている。
しきかへる なみにとはばや はりまがた めじかの松の 千世のむかしを
——寄せては返す波に問うてみたい。播磨潟、雌鹿の松の、千年の昔を。
なお、この物語には異伝もある。漁師が舟に乗せた美しい娘の正体が白鹿だった、とする異類婚姻譚めいた形で語られることもあり、口承の物語が語り手ごとに姿を変えてきたことをうかがわせる。
伝承五 少童海神と赤石 ― 林神社の縁起
ここまでの物語は「なぜ石が赤いのか」を語ってきた。だが林神社の縁起は、視点がまったく違う。赤石は、神が顕れた場所そのものなのである。
林神社は明石市宮の上、海を見下ろす高台に建つ。『延喜式』神名帳(927年成立)に載る式内社であり、明石で最も古い神社とされる。
その社伝は言う。
いにしえ、林の海浜にあった巨大な赤石の上に、海の神・少童海神(わたつみのかみ)が顕現した。人々はこの石を神聖視し、崇めた。
しかし人皇十三代・成務天皇8年(伝138年)、大暴風雨が襲い、赤石は風波のために海中へ没した。
翌9年の元旦、人々は小高い丘に社を建て、少童海神を祀った。——これが林神社の創祀である。
境内の石碑には「古へ少童海命当所海浜の赤岩の上に現れ給う。其の石成務天皇8年8月波の為海に没す。翌9年元旦に社を建て同神を祀る」と刻まれ、社伝はさらに、平城天皇(在位806〜809年)が行幸して赤石を展覧したこと、天正9年(1581年)に羽柴秀吉が参拝し、舟から赤石を観覧したことを伝えている。
鹿は登場しない。血も流れない。だがこの縁起こそが、「海に沈んだ赤石を、人々が千八百年以上も忘れずに見つめ続けてきた」ことの、最も直接的な証言なのである。
(ここからは少し視点を引いて、伝承の「型」の話をします)
鹿が矢に射られて死ぬ——この筋書きには、実は千三百年前の正史に原型と呼べる説話があります。『日本書紀』仁徳天皇38年7月条の「菟餓野(とがの)の鹿」です。
摂津の菟餓野に牡鹿と牝鹿の夫婦がおり、ある夜、牡鹿が「白い霜が全身を覆う夢」を見ます。牝鹿は夢を占って告げました。それは、あなたが射られて死に、白い塩を体に塗られる前兆です——と。果たしてその通り、牡鹿は狩人に射られて死んだ、という物語です。
舞台は摂津であり明石ではありません。しかし「夫婦の鹿」「射られて死ぬ運命」という骨格は、宝蔵寺のおささの物語と響き合います。鹿を射殺す物語は、古代の人々の心に深く根を張った「型」であり、赤石伝説はその型が明石の海と結びついて結晶したもの——そう見ることもできるのです。
さらに言えば、鹿の瀬という好漁場をめぐっては、明石の漁師と淡路の漁師のあいだに争いの歴史がありました。豊かな漁場の奪い合いで流れた血が、「海に沈んだ鹿の血」の物語に影を落としている可能性——これは筆者の考察ですが、伝説の背後に実際の海の暮らしを透かし見る補助線として、記しておきます。
ニタエル六つの物語が、一つの石を指している……。私はこの伝説と自分の由来との因果を、ずっと追い続けているの。この先の記録編は、その旅の足場になるはずよ
第二部 記録編 ― 文献と調査が語る赤石
(この章に記すのは、文献・記録・調査によって確認できる事実です。伝承と混同しないよう、出典を逐一示します)
一 「赤石」から「明石」へ ― 表記の変遷
地名「あかし」が、かつて「赤石」と書かれていたこと。これは伝説ではなく、文献上の事実です。
・『播磨国風土記』(713〜715年頃成立): 「赤石」「明石」の両表記が混在します。
・『日本書紀』(720年成立): 「あかし」はすべて「赤石」と表記されています。
・『続日本紀』(797年完成): 一転して、すべて「明石」表記になります。「明石」の初出は神亀3年(726年)10月10日条、聖武天皇の播磨行幸に際して「明石賀古二郡」の高齢者に穀を賜ったという記事です。
つまり8世紀のある時点で、「赤石」は「明石」へと書き換えられました。和銅6年(713年)の「畿内七道諸国郡郷名著好字」——地名に良い字を当てよという官命——の前後で表記が動いていることは、示唆的です。
「明石」の前は「赤石」だった。 この一点は、動きません。だからこそ「では、なぜ赤石なのか」という問いが、千年以上にわたって人々を惹きつけてきたのです。
二 『日本書紀』の中の赤石 ― 大化の改新と、海底の真珠
『日本書紀』には、赤石にまつわる記事が複数あります。
最も名高いのは、大化2年(646年)正月の改新の詔です。畿内の範囲を定めるにあたり、その西の端を「赤石の櫛淵(くしぶち)」としました。飛鳥の朝廷にとって、赤石は「畿内の西の果て」——都の世界と外の世界の境界線だったのです。
さらに神功皇后摂政元年2月条には、麛坂王・忍熊王が謀って「天皇のため」と偽り、山陵を赤石に作らせたという記事があります。
そして特筆すべきは、允恭天皇14年9月条。赤石の海底に真珠があり、その珠を得て祀れば、ことごとく獲物を得られる——という記事です。海人が潜っても届かないほど深い海の底に、光るものが眠っている。正史がそう書いた海こそ、明石の海でした。海底に神秘の何かが在るという想像力は、千三百年前からこの海に注がれていたのです。
三 江戸時代の記録 ― 『明石記』と「赤石見」
時代は下って江戸時代。享保年間(1716〜1736年)に成立した明石藩の地誌『明石記』は、赤石を驚くほど具体的に記録しています。
・場所: 西浦辺組東松江村と西松江村の境の浜辺から、約8間(約14.5メートル)沖
・大きさ: 上面は一辺4尺(約1.2メートル)、他辺5尺(約1.5メートル)。下辺は傘のように細い
・色: 薄紫色
・水深: 普段は2尺(約60センチ)ほど水中に沈み、毎年3月3日の大潮に、上部が海面に現れる
正保2年(1645年)の御改絵図には「浜辺より3間ばかり沖」と描かれ、文化元年(1804年)の『播州名所巡覧図絵』もほぼ同内容を載せています(ただしこちらは、大潮でも水面には現れないと記します)。
そして江戸の人々は、この石を見に行きました。旧暦3月3日の大潮の日、岸から赤石が見える——「赤石見(あかしみ)」と呼ばれる見物が行われ、浜は賑わったと伝わります。学術辞典『日本歴史地名大系』も明石郡の項で「この赤石は旧暦三月三日の大潮に渚から見えるため、赤石見といって見物人が集まったという」と記しています(同辞典は地名由来としては「不詳」と留保しています。この点は第三部で扱います)。
天正9年(1581年)に羽柴秀吉が船で赤石を見物したという林神社社伝も、この「赤石見」の系譜に連なる記録と言えるでしょう。天下人さえ、この石を見たがったのです。
四 おしゃたか舟神事 ― 赤石に祈った海人たち
明石市指定無形民俗文化財「おしゃたか舟神事」(岩屋神社・7月)の由来にも、赤石が登場します。
文政8年(1825年)の地誌『淡路草』によれば、淡路の石屋神社の分霊を明石の岩屋神社へ遷そうとしたとき、海が荒れて明石浦に舟を着けられませんでした。そこで人々は、西方の林崎前の赤石——明石の名の起源とされる石——に舟を着け、海難防止と豊漁を祈ったのです。
明け方、海は静まりました。住民たちは沖まで泳ぎ、「ご神体と同じ舟に乗るのは畏れ多い」と、舟を手で押して岩屋まで運んだ——これが、今も続くおしゃたか舟神事の始まりと伝えられています。
赤石は、物語の中の石であるだけではありませんでした。海に生きる人々が、実際に舟を寄せ、祈りを捧げた信仰の座標だったのです。
五 近現代の確認記録 ― 赤石は「今も」ある
では、その赤石は今どこにあるのか。近現代の記録を並べます。


赤石の海底写真は現存し、筆者も入手している。だが撮影者と権利の所在を辿りきれなかったため、本記事には掲載しない。かわりに、写真から読み取れる特徴をもとに、独自の構図でイメージイラストを描き起こした。以下の二枚がそれである。実写ではない。
昭和62年(1987年)5月10日: 岩屋神社を中心とした調査が行われ、東松江川沖200メートル・水深5メートルの海底で、長さ1.8メートル・幅1.5メートル・厚さ0.7メートルの石が確認されました。石は黒っぽい花崗岩で、貝殻や紅藻が付着して赤黒く見えたと記録されています(明石市立図書館デジタルアーカイブ『明石の漁村』所収)。
左図は、そのイメージイラスト。潜水者と並べて描くことで、この石の大きさが実感できるようにした。海藻と貝殻の隙間に、赤黒い岩肌が覗いている。


平成20年(2008年)8月27日: 約130メートル沖合・水深約2.5メートルの地点で赤石が確認されたと伝えられます。大きさは約1×1.7メートル・高さ約0.7メートル。表面は海藻に覆われていたものの、岩肌は赤かったとされます。この確認は神戸新聞の取材によるものと地元資料(林崎・貴崎地区の郷土紹介ページ)は伝えていますが、原記事は現在ウェブ上では確認できていません。本記事では「確認されたと伝えられる」に留めます。
右図は、そのイメージイラスト。起伏に富んだ荒々しい形、垂れ下がる海藻、その隙間に広がる赤褐色の岩肌——写真が伝えていた特徴を描き起こした。


そして古老の証言。『あかし昔ばなし』は、こんな声を採録しています。
「私の小学校のころ、昭和のはじめのころですが、赤石は海岸からほんの二、三メートルのところに顔を出してました」
昭和のはじめ、赤石は子どもの目にも見える場所にあった——生きた記憶として語られているのです。
六 「沖合何メートル」問題 ― 記録の食い違いを整理する
ここで、注意深い読者は気づいたはずです。赤石の位置が、資料によってバラバラであることに。
・正保2年(1645年)御改絵図: 浜から3間(約5.5メートル)
・『明石記』(享保年間): 8間(約14.5メートル)
・『あかし昔ばなし』の記述: 約15メートル
・赤石の碑の説明板: 約20メートル
・昭和初期の古老の証言: 2〜3メートル
・1987年調査: 200メートル(水深5メートル)
・2008年の確認(伝): 約130メートル(水深約2.5メートル)
江戸期〜昭和初期の「数メートル〜20メートル」と、現代調査の「130〜200メートル」。この差は一見矛盾ですが、測定の起点(どこを「浜辺」とするか)の違いに加え、この一帯の海岸線が近現代の埋め立てや護岸整備、砂浜の変化で大きく動いてきたことを考えれば、不思議はありません。むしろ「昔は浜からすぐそこに見えた石が、今は沖に遠ざかった」という変化そのものが、海岸の歴史の証言なのです。
七 赤石の碑 ― 今、誰でも辿り着ける目印
現地には「赤石の碑」が建っています。場所は林崎松江海岸と藤江海岸の中間、藤江漁港の西端付近。地図上では「松江公園」の真南にあたります。碑には鹿のレリーフが刻まれ、傍らでは赤石川(東松江川)という小さな流れが海に注いでいます。夏には子どもたちが海の生き物を探す、宝庫のような砂浜です。
碑の説明板には、こう記されています。
ここ松江の浜から約二十メートル沖の海底にたて横一・五メートルほどの赤い巨石があって赤石とよばれ、陰暦三月三日の大旱潮には岸から石の赤い色が見えるといってにぎわったものです
この碑は長らく、知る人ぞ知る存在でした。見つけにくい場所にあったため、筆者は調査ののち、Googleマップに観光名所「赤石の碑」として申請・登録しました。今では地図アプリで検索すれば、誰でも辿り着けます。現地を歩いた記録は、既存記事「林崎松江海岸に眠る明石の碑(赤石伝説)とは」(下記の「✓あわせて読みたい」)に詳しくまとめています。



……鹿の血と、神さんの想いが固まった石。俺の生まれた場所の話だ。冷めた出汁でも飲みながら、ゆっくり読んでけ


第三部 探求編 ― 学術は赤石をどう見ているか
(この章では、伝説にとって「不都合」な学術的見解も含めて、正面から検証します)
一 学術の見解 ― 「明るい土地」説と「赤磯」説
まず、事実として押さえておくべきことがあります。郷土史・学術の世界では、「赤石=地名由来」説は、必ずしも支持されていません。
明石市立図書館デジタルアーカイブに収められた郷土誌『明石の漁村』は、こう結論づけています。
「松江沖に現存する赤石について、『宝蔵寺記』『雄岡山最明寺記』では、この石に関してまったく触れてはいない。古代において存在したとは考えられない赤石に、明石の地名由来を求めることはできない」
「明石の地名由来については、この赤石のほかに、海岸が赤い(赤磯)などもあるが、古代の明石は畿内と畿外の境界の地、畿内から畿外に入って最初の明るい土地、万葉歌人がうたうように眺望が開けた明るい国であったことによるという説が妥当ではないだろうか」
つまり有力視されているのは、大国主命の「おお、明し」伝承とも響き合う「明るい土地(明し)」説です。ほかに、海岸の赤い岩肌に由来する「赤磯」説もあり、『明石市史』は赤石説を後世の付会(こじつけ)と見ている、と紹介する資料もあります(ただし『明石市史』原文は筆者未確認のため、伝聞に留めます)。
前出の『日本歴史地名大系』も、赤石の存在と「赤石見」の賑わいは記録しつつ、地名由来としては「不詳」と、慎重に留保しています。
二 「石垣運搬船沈没」説 ― もう一つの仮説
『明石の漁村』はさらに踏み込みます。現存する赤石の正体について、石材の観点からこう推測するのです。
「近世を迎える頃に突如としてこの石は出現している」「現存する赤石は近世初頭に城郭の石垣を築くために運ばれていた石が不幸にして沈んだものと考えている」
傍証として挙げられるのは、大坂夏の陣後、姫路城主池田輝政配下の船大将・横河重陳が、小豆島や家島から大坂へ石垣用の石材を運んだという史実です。石を満載した船が明石沖で難破し、落ちた石が海底に残った——それが今の「赤石」ではないか、という仮説です。
三 検証 ― その論法は、どこまで確かか
さて、ここからが本記事の核心です。学術の見解を紹介した以上、その論法の確かさも、同じ厳しさで検証しなければ公平ではありません。
まず「古代に赤石は存在しなかった」とする論拠を見てみます。根拠は「『宝蔵寺記』『雄岡山最明寺記』に、この石への言及がない」こと——つまり、二つの寺伝に書かれていないから、存在しなかった、という推論です。
これは論理学で言う「証拠の不在」を「不在の証拠」として扱う論法であり、慎重に扱う必要があります。二つの寺伝は、それぞれの寺の縁起を語る文書であって、当時の地誌や百科事典ではありません。ある寺の文書に載っていないことは、その事物が存在しなかったことを意味しない——これは史料批判の基本です。しかも皮肉なことに、『明石の漁村』自身が指摘するとおり、享保年間の『明石記』は「宝蔵寺縁起には鹿の血が石となり赤石と呼ばれた理由が示されている」と書いています。江戸時代の藩の地誌編纂者は、寺伝と赤石を結びつけて理解していたのです(現存する宝蔵寺縁起にその記述がないなら、失われた別伝があった可能性すら残ります)。
さらに、林神社の社伝は成務天皇8年に赤石が海没したと伝え、允恭天皇紀は赤石の海底の真珠を記します。伝承・社伝のレベルとはいえ、「海中の神聖な何か」への言及は古代から連続しており、「近世に突如出現した」と言い切れるほど、記録の空白は単純ではありません。
一方の「石垣運搬船沈没」説はどうか。横河重陳の石材輸送は史実です。しかし、その船が松江沖で石を落としたという記録は、一つも示されていません。 場所の一致も、時期の一致も、石材の照合もない。つまりこちらも、状況証拠からの推測——仮説にすぎないのです。「伝承は証拠がないから退けるが、自説は証拠がなくても採る」のだとすれば、それは論証の天秤が傾いていると言わざるを得ません。
念のため付け加えれば、1987年の調査で確認された石は「黒っぽい花崗岩」でした。花崗岩は瀬戸内の島々で切り出され、城の石垣にも使われた石です。この点は沈没説と整合します。しかし同時に、明石周辺の海底に花崗岩の転石があること自体は何ら不自然ではなく、これも決め手にはなりません。
四 本記事の立場 ― 分からないことは、分からないと言う
整理しましょう。
・「明石」の前が「赤石」であったこと——文献上の事実です。
・松江〜藤江沖の海底に石が実在すること——調査で確認された事実です。
・江戸時代、人々が「赤石見」に集まったこと——複数の記録が伝える事実です。
・その石が、地名「赤石」の由来であるかどうか——分かりません。
・鹿の血の物語が事実かどうか——これは問い自体が野暮というものでしょう。伝承は、事実であることを目的としていません。
「明るい土地」説は有力です。しかし決定打はありません。「赤石由来」説にも決定打はありません。「石垣沈没」説にも決定打はありません。千三百年前に「赤石」と書いた人の心の中は、誰にも覗けないのです。
だからこそ——判断は、読者一人ひとりに委ねます。
ただし一つだけ、筆者として言えることがあります。学術が何と言おうと、この海に石が在り、人々が千八百年以上それを見つめ、物語を紡ぎ、舟を寄せて祈り、雛の節句に浜へ見物に集まってきた——その営みのすべては、紛れもない事実だということです。伝説の真偽と、伝説が生きてきた歴史は、別のものです。そして後者の重みは、どんな学説にも揺るがせません。
終章 ― 浜に立つ
夕暮れの林崎松江海岸に立ってみるといい。
西の空が茜に染まり、その茜の沈む方角——ちょうどそのあたりの海底に、赤石は今も眠っている。
猟師の矢に倒れた鹿。小豆島へ恋に急いだ男神。浅瀬を跳んで夫のもとへ通った雌鹿おささ。赤い石の上に顕れた海の神。石を見ようと浜に集った江戸の人々。荒れる海で赤石に舟を寄せ、祈った海人たち。そして昭和のはじめ、波打ち際に顔を出す赤い石を見つめていた、一人の小学生。
千八百年ぶん の眼差しが、この海の一点に注がれてきた。
地名の由来が「明るい土地」だろうと「赤い石」だろうと、構わない。確かなことは、明石の人々が自分たちの土地の名を、一つの石と、一頭の鹿の物語に託して語り継いできたということだ。
石は、まだそこにある。
そして——赤石伝説の探求の旅は、まだ始まったばかりなのだ。


関連記事




主要出典
・『日本書紀』(720年)神功皇后摂政元年2月条/允恭天皇14年9月条/仁徳天皇38年7月条/大化2年正月改新詔
・『播磨国風土記』(713〜715年頃)
・『続日本紀』(797年)神亀3年10月10日条
・『明石記』(享保年間、明石藩地誌)
・『播州名所巡覧図絵』(文化元年・1804年)
・『淡路草』(文政8年・1825年)
・『あかし昔ばなし』(神戸新聞明石総局編)
・『明石の漁村』(明石市立図書館デジタルアーカイブ)
・『日本歴史地名大系』「明石郡」(平凡社)
・林神社社伝・境内石碑/宝蔵寺「雌鹿の松」碑
・説明板(明石市教育委員会)
・兵庫県立歴史博物館デジタルミュージアム「神の坐す山と神出の里」
・岩屋神社1987年5月10日調査記録(『明石の漁村』所収)
・2008年8月27日の赤石確認(神戸新聞取材と伝えられる。地元郷土紹介ページによる。原記事未確認)










