兵庫県明石市、その明石の名前の由来をご存じでしょうか?
明石(あかし)は元々赤石(あかいし)からきていると聞いたことがある明石民は多いようです。私も子供の頃は小学校の先生や親を含めた大人たちに聞いた覚えがあります。ただ、なんとなく「赤石」が「明石」の名前の由来なんだと。
それではその「赤石」ってどこにあるのだろうか?そもそも今もあるのでしょうか?
明石の名前の由来は赤石?
古代の書物によると5世紀~7世紀にかけて「明石国(あかしのくに)」という国があったらしい。明石国は今の明石市・神戸市の一部(須磨区・垂水区・西区・北区)・三木市・稲美町・播磨町・加古川市・高砂市・姫路市の一部の範囲だった。
また「日本書紀」の中にも『赤石』という記述があり、奈良時代には「あかし」という地名があったとの事。(※日本書紀には645年の大化の改新の時に畿内の西の端を赤石の櫛淵(あかしのくしぶち)に定めたと書かれているそうです)
またいくつかある『赤石の伝説』の一つは、次のマンガ(画像をタップすればリンクを貼っています)でも紹介されています。もっともメジャーな猟師の放った矢がシカにあたり、シカから流れ出た赤い血が岩になり、それが赤石と呼ばれるようになったってお話しです。
他にもある「あかし」の由来。神出山で大国主命が命名!?
今の神戸市西区神出町には神出山と呼ばれる山がありました。むかしむかしここでスサノオノミコト(建速須佐之男命)とクシナダヒメ(櫛名田比売)が出会い、オオナムチノカミ(大穴牟遅神)とオオクニヌシノミコト(大国主命)を生みました。大穴牟遅神はここで181柱の神を生みました。かくしてこの地は多くの神を生み出したことから「神出」と呼ばれることとなり、その山を「神出山」と呼ぶようになりました。
それから人の世となりました。神出山は瓜二つの2つの山の名前でしたが、大同4年(西暦809年)に平城天皇がこの地を諸国巡幸の際に立ち寄り、神を勧請祭祀し神出神社を起こしたそうです。そのおりに神出山に雄岡と雌岡の神号を贈られたとの事。その2つの山名が今に伝わり、東を雄岡山(おっこうさん241m)、西を雌岡山(めっこうさん249m)と呼ぶが、昔から「神出富士」「明石富士」とも呼ばれ、信仰の対象として親しまれてきています。
そしてその神出山(雄岡山・雌岡山)から南を眺めた大国主命がその絶景に感動し「おお、明し(あかし=明るい)」を誉められたので、「あかし」という地名が生まれたという説。
(※むかし、近畿(畿内)の入り口に位置する明石あたりは、夜に西の方から見ると明るい土地であったと言われています。)
他にもその昔、雄岡と雌岡の夫婦の神がいたそうです。あるとき男神の雄岡が小豆島の美人神に惚れてしまったらしいのです。雄岡は鹿に乗り、小豆島までの浅瀬ができる時期にその美人神に会いに行こうとしました。その途中、淡路の漁師に弓を撃たれて男神と鹿は海に沈んでしまいます。やがて鹿は赤い石となり「あかし」という地名が生まれたという説。
(※あとで紹介する「鹿の瀬」と呼ばれる海域が林崎から小豆島の間に広がっており、潮位によってはシカが渡ってこれたとする伝承が残っているそうです)
よく似た話で、雄岡山・雌岡山の狩人が、大鹿と一緒に青い海を泳いで林崎の沖合いまできたとき、丘の上にいた狩人が大鹿を見つけて、弓に矢をつがえて放った。空を切って飛んできた矢は大鹿に当たり、狩人も一緒に溺れ死んだ。この死んだ鹿の血が赤石となって、東松江と西松江の間、浜から15mほど沖の海中に沈み、ここから「あかし」という地名が生まれたという説。(※『あかし昔ばなし』「雄岡山最明寺記」神戸新聞明石総局・編)
他には宝蔵寺(明石市林2丁目)の「雌鹿の松」の説明板に昔、林崎に「おささ」という雌鹿がいて、小豆島には雄鹿が住んでいた。二頭は仲むつまじい夫婦だった。潮が引くと、小豆島まで浮かび上がった浅瀬を利用して往復した。好漁場の鹿ノ瀬は、ここから名付けられた。ある嵐の日、「おささ」は漁師の起こした過ちで命を落とした。このためか、嵐が何日も続いた。怖くなった漁師が神仏にお祈りしたところ、赤石となった白鹿を弔うようにというお告げがあった。早速、宝蔵寺の境内に若松を植えて霊を慰めたところ嵐はぴたりと止んだ。この松は「雌鹿の松」と呼ばれ、空を隠すほど大きくなったが、昭和20年(1945)7月の空襲で本堂とともに焼失した。現在は昭和23年(1948)に植えられた二代目の松である。と書かれている。
(※原典は『林崎村郷土誌』に所収されている「宝蔵寺記」と思われる)
他にも同じ宝蔵寺の新明石の史跡には、昔、林崎に「おささ」という雌鹿、小豆島には雄鹿が住んでいた。二頭は浅瀬を渡って会っていた。ある日、雌鹿が帰ろうとすると暴風雨になった。鹿は美しい娘に化け漁船に乗せてもらったが、途中で正体がばれ、殺されたという。それ以来、浅瀬を鹿ノ瀬と呼び、鹿の血が赤石となった。村人は鹿を悲しみ、松を植えて「雌鹿の松」と呼ぶようになった。とある。
(※原典は『林崎村郷土誌』に所収されている「宝蔵寺記」と思われる)
日本屈指の漁場「鹿の瀬」
明石の沖から小豆島や播磨灘へ向かう東西約20km、南北約5kmの海域は「鹿の瀬」と呼ばれ、水深20mから浅いところで2、3mまでの水深が連続する砂で覆われた海中の丘陵地帯になっています。瀬戸内海から明石海峡へ流れ込む早い潮の流れがこのあたりの浅瀬に入り込み、プランクトン・エビ・カニ・小魚が集まってエサ場を形成しています。とうぜんここへ明石鯛・明石ダコをはじめイカナゴにスズキ、カレイやアナゴなど多種多様な魚が集まってきます。昔から「鹿の瀬」は瀬戸内海随一の魚の宝庫といわれてきました。
潮位によっては浅瀬が非常に大きくなるため、中大型の漁船や船舶にとっては危険水域となります。
Googleマップでも「鹿ノ瀬灯浮標」と「鹿ノ瀬西方灯浮標」が確認できます。
また古くは万葉集に次のような柿本人麻呂の歌があります。
荒たへの藤江の浦に鱸釣る白水郎とか見らむ旅行くわれを
藤江の浦に鱸を釣る海人と見るだろうか。旅をする私を。
柿本人麻呂の時代から藤江の浦でスズキなどの漁業が盛んであった事が分ります。この「魚の宝庫」をめぐっては、いろいろな小競り合いや争いがあったのではないかと思われます。縄張を荒らして侵入してきた者へは矢を射る事もあったのでしょう。明石側の漁師と淡路島の漁師の間では幾度となくすれ違いが起きた事でしょう。きっと多くの赤い血が流れた事も想像に難くありません。そういった赤い血が赤い石の伝説として語り継がれたとしても不思議はありませんね。
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